八県百感――九州沖縄かけある記――
田村貴昭 2004年10月10日記
■■まぶたを閉じて沖縄戦を思う■■
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| ひめゆり資料館 |
9月11日、一月前(8月13日)に宜野湾市で起こった、米軍ヘリ墜落事件に抗議する市民集会に参加するため沖縄入り。沖縄は選挙の応援など過去何度も訪れながら、じっくり沖縄戦の悲劇を学ぶ時間を持ちませんでした。いい機会なので、今年4月にリニューアルしたひめゆり資料館に向かいました。
終戦間近の1945年6月18日、南風原の沖縄陸軍病院に動員された沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒・教師は、米軍の迫る中、突然の解散命令に絶望し、逃げ惑う中、砲弾によってあるいは自らの手榴弾によって、その多くが命を失いました。沖縄を日本本土攻略の拠点と位置づけ、物量のある限りを使うアメリカ。本土上陸を一日も遅らせるために県民の根こそぎ動員を企てる日本軍。一般住民をまきこんでの地上戦で県民の4人に1人が亡くなりました。
私はめったなことでは泣きません。日々の生活相談を通じ、人の生き死に見え、幾人もの波乱万丈の人生を聞くうち、人間の命というものに鈍感になっているのでは…時に思うことがあります。
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| 平和の礎(いしじ) |
奇跡的に生き残ったひめゆりの少女たちが後年、当時の模様を語り始めます。それは死の彷徨の証言――医薬品も食料も底をつく中で、運び込まれる負傷兵の看護に献身しようとしてももうできない。挙句に本土から来た兵士に「沖縄のためにたたかっているのに」と罵られ、スパイ容疑もかけられる。朽ち果てるまでたたかうことが絶対命令。常時死臭の中で働き、最後は殺されるか自決するかの断末魔。それらを読み、最後の展示室を出るころには、ぽろぽろ溢れる涙を止めることはできません。
平和の礎(いしじ)のある平和資料館にも行きました。平和の礎は沖縄戦などで亡くなったすべての人々の氏名を刻んだ記念碑。例えば沖縄出身の方が約14万人、米国人が1万4千人、だから外国人も訪れます。国籍及び軍人、民間人を問わず犠牲者を弔うのは、人類だけの過ち、戦争をしないことへの誓いか、人の扶助と絆を大切とする沖縄の「結い」の考えに至るものなのか――黙祷。
■■アメリカへ帰れ――世論の確かな変化■■
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| 市田書記局長とともに名護・辺野古を視察 |
戦後半世紀以上もたつのに、沖縄はまだ米軍の圧制に苦しめられています。9月12日、市田書記局長を先頭にたたかう住民を激励しました。金武町の米軍都市型訓練基地建設に反対する伊芸区の人たちは、監視台を作って町をあげての取り組み。普天間基地の移設予定地である名護市・辺野古では連日の座り込み。こちらのほうが勇気づけられました。「基地は認めない」その迫力と意思はどんな兵器よりも強い!
台風で延期となっていた市民集会は、12日午後2時から快晴の中で開かれました。市田書記局長、赤嶺衆議院議員とともに会場の沖縄国際大学のグランドに座り込みました。集まった3万人の平和への思い、米軍への怒りをビシビシ感じます。
ヘリ墜落事件を境に県民世論に確かな変化が。それは、普天間基地の移設問題です。「基地ある限り県民の命は守れない」と、国と稲嶺県政が認める名護への移設計画に県民が不支持(81%)を表明しているのです。
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| 伊波宜野湾市長を激励 |
3万人が参加した市民集会 |
では基地をどこへ――本土(8%)ではなく「グアム、ハワイに移設すべき」(71%)が最も多い回答だったのです。(いずれも沖縄タイムスと朝日新聞の合同世論調査9/14)。ウチナーンチュとヤマトンチュが「憲法まもれ」の運動を同じ立場で構築できる転機となったのでは、と感じました。
同じ頃、小泉首相はブラジルに行って日系人の苦労に涙したという。それもいい。しかし私は言いたい。貴方がこの夏まず行くべきところだったのは、自国民が命の危機に瀕し、政府の意思と行為によってしか解決し得ない問題を抱える、沖縄ではなかったのか。
■■「壁」■■
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| 米軍ヘリが墜落した沖縄国際大学本館 |
ひめゆりの資料館にしても、宜野湾の集会にしても、若い人の姿が多かったことが印象的でした。
中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であった琉球王国、そして日本政府による統治、戦争、米軍支配と、沖縄は被支配の歴史を繰り返します。沖縄と本土の間には海しかありませんが、ウチナーにしてみれば、様々な意味での「壁」があると私は考えます。だから何度訪沖しても「俺は沖縄を知っとるぞ」とは言えないのです。私はその「壁」が大事だと思います。
「壁」は沖縄そのものだから。
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